《 O・ヘンリー『最後の一葉』外伝 》
画家という言葉に自称というのが付けられるような、全く売れない絵描きがいる。Aは日雇いの仕事から帰って来ると酒をあおって寝てしまう、そんな日常を送っていた。安いボロアパートの一階の手前の部屋に彼は暮らしている。部屋の隅に立っているイーゼルにはカンバスが乗っていて、大きな布が掛けられているのだが、その布の皺ひだに積もった埃が手付かずの長い時間を表していた。
老人という表現は気の毒かも知れないが、それに近い年齢であるのは確かである。何より風貌は既に初老の扉を通り抜けていた。Aは、酔うといつも周囲の人たちに言った。「俺はいつか傑作を描くんだ」と。人は、勿論それを微笑みをもって聞くだけであった。
Aが言うところの「いつか傑作を…」というのは、彼の虚栄と妄想からくる戯言〔たわごと〕なのだろうか。実はそうでもないのである。Aは二十年ほど前から作品に関する一つの構想を持っていた。そして、それは間違いなく素晴らしいものであった。
素晴らしい(と、自負している)ものであるだけに、いい加減な絵には出来ない、完璧なものにしなくてはならない、という思いが強かった。そのことが、カンバスに筆を運ぶ時期の到来を遠ざけていたのかも知れない。
また、頭の中の構想は時が経つほど成熟度が増してゆく。二十年前より十年前、十年前より今の方が構想の姿はより洗練されて来ている。ならば、今が形として固定すべき時なのか。もしかして、一年後の方がもっと良くなっているのではないだろうか、という思いも無くはない。
しかし、形に出来ない真の原因はそんな事ではなく、単に彼の表現物構築力(頭の中でイメージしたものを、物理的に視聴覚で認識できる形に造る能力)の弱さに依るものである。
画家がイメージを形にするのが苦手とはどういうことか。ならば画家(という表現者)などになってはいけない。その通りである。だからAは売れてないし、貧しいのである。
Aは温めている構想をいつか必ず形(絵)にしなければと思っている。それは義務だとさえ考えている。自分はこの絵を描くためだけに此の世に生まれて来た、天命として与えられた仕事、と本気でそう思うようになっていた。
実際、彼の構想が絵として完成すれば間違いなく傑作と呼ばれ、絶賛の嵐の中に置かれるべき価値のあるものであった。人にどう思われようが『俺は絵描きだ』と思い続けられるのは、いつも頭の中に傑作を持ち続けてるからである。
もう長い間、映画を撮ったことのない人でも、肩書きに「映画監督」と平気で書き、名告れるのは、過去に一本だけ映画を作った事があるという経歴にしがみ付いてるのではなく、『傑作を撮る用意は何時でもある』という思いが、その自負心を支えているからであろう。ただ、映画作りには膨大なカネが要る。彼等には構築するだけの資金力が無いだけである。
Aは日雇い労働が事実上の職業であっても、気持ちは紛れもなく画家(絵描き)であった。
Aが住むアパートの二階の一部屋では、若い女が二人で共同生活をしている。一人は髪が長く、一人は髪が短い。二人とも気立ての良い娘である。
ある時、髪長〔かみなが〕が体調を崩した。それは全く一時的なものだと彼女たちは思っていたのだが、どうも様子がおかしい。近頃この辺りでは肺炎という病気が暴れている。その事は彼女たちも知っていた。
髪長はベッドに臥せった日が続き、食欲も落ち、気持ちも沈んでいくのであった。それは、生気にも影響が出始めていた。短髪〔タンパツ〕は、そんな彼女を元気づけようと殊更陽気に振る舞うのだが、内心気が気でない。
髪長はベッドに横たわったまま、窓から見える景色をぼんやり眺めるようになっていた。
「…九枚。…八枚。」
時折、髪長が小さな声で数をいう。短髪は当初、気にも留めなかったが、たまたま何気無く窓の外を見た時、向かいの壁に這う蔦の葉の一枚が、ハラハラと風に舞って落ちるのが目に入った。
「五枚…、」と髪長が、ささめき声で言った。
「あと五枚…。あの葉が全部散った時、私の命も終わるのよ。」
短髪は一瞬、首すじにひんやりとしたものを感じた。
「何を言ってるの。あの蔦と、あなたと、何の関係が有るっていうの。もう、つまらないこと言わないで。」
「ううん…、三日前から決まっているの。」
短髪は、ほとほと困ってしまった。
「少し眠らない?」
「私、Aさんにデッサンのモデルをお願いしているの。」
「もう窓の外は見ないで。目を閉じてて。」
この辺りの通りには、画家や芸術家が多く住んでいる。何時の頃からかそんな街になっていた。彼女たちもまた、画家の卵なのである。
短髪はAを呼びに一階へ降りて行った。ドアをノックすると、髭面の木彫りのような顔が見えた。相変わらずアルコールのニオイを連れている。短髪はAの部屋に入り、Aが部屋を出る用意をしているあいだ、髪長の困った話をした。
葉が散ったら自分の命も終わるなど、寝ぼけたことを言っている面倒くさい女に、Aは苛立ちに憐れみを練り込んだような表情で、いくつかの辛辣な言葉を吐き捨てた。
Aの支度ができると、二人は階段を上がって行った。眠っている(?)髪長を目覚めさせないように気を遣いながら短髪はカルトンを立て、Aはその前で注文通り世捨て人の老いた鉱夫となった。
夕方から霙〔みぞれ〕まじりの冷たい雨が降り始めた。
ジンをひっかけて、手枕でベットに仰向けで寝っ転がっているAの耳に、降り続く雨の音が聞こえてくる。さっきよりも確実に雨粒の量が増している。Aは徐〔おもむろ〕に上半身を起した。
小さく溜め息をつくと、「やれやれ…。」と呟いてベットから降りた。外に出て裏庭に廻ってカンテラの明かりを壁に近づけると、もう無いだろうと思っていた蔦の葉が二枚だけ残っている。
Aは部屋に戻り、パレットに数色の絵の具を絞り出し、数本の筆を上着の下のベルトに差し込んだ。いつもの場所に置いてある梯子〔はしご〕を引っ張り出し、外に出た。
裏庭の煉瓦の壁まで行き、梯子を立てる場所を決めるため壁を見上げると、さっき二枚あった筈の葉の一枚が無くなっていた。辛うじて残った一枚の葉の場所に梯子を立てた。
Aは、葉の形と位置をトレースするように輪郭線を引いた。葉を少し浮かせようと、葉が付く蔓を摘んでほんのちょっと持ち上げた時、葉が落ちた。
アッ、と一瞬思ったが、これは既に時間の問題であった。むしろ、この葉はAが輪郭線を取るまで耐えて待っていて、それが済んだと感じて力尽きた、とでも思えるようなタイミングであった。いま落ちていった葉が何処へ行ったのか、この暗闇と風の中では全く知り得ないものとなっていた。
Aは一旦梯子を降り、地面に散らばっている多くの葉の中から比較的新しい葉を捜し、その色と形に於いてAの美的感覚が良しとする一枚を選んだ。
雨に濡れて良い条件を保っている葉は少なかったのだが、選んだ一枚を持って再び梯子に足を掛けた。Aは、彼自身の画風とは全く異質なスーパーリアリズムの技法と、その精神を持って葉の写実表現を始めた。同時に葉の、茎に近い所にほんの少し緑色を差すという創作をした。また、葉が作るであろう影を描くことで、壁との距離感や立体感を持たせる工夫も忘れなかった。
冷たい雨と風は執拗なまでに嫌がらせを続けたが、彼は黙々と筆を動かし、遂にその絵を完成させた。
雑誌の挿絵を何点か描く仕事で得たお金を持って、食料の買い出しに出掛けていた短髪が、昼過ぎに帰って来た。抱えた紙袋をテーブルの上に置くと、沈痛な面持ちでベットの上の髪長に言った。
「Aさん、亡くなった…。」
髪長は目を思いっきり見開いて、短髪を見た。
「いつ。」
「ゆうべ、…だって。」
一昨日の朝に倒れているのが見つかって、午前中のうちに病院へ搬送されたというのは聞いていた。僅か二日である。
短髪が買い物から戻って来て階段に一足乗せたところで、ふと見るとAの部屋のドアが開け放たれている。変に思って覗いてみると、数人の男が居て、何やら片付けをしている。その中に家主がいた。
「Aさん、どう…なさったんですか。」
短髪の声に家主は振り向いた。そして、話をしてくれた。
その内容を短髪は掻い摘んで髪長に話した。夜中じゅうひどい雨と風だった翌朝、Aが部屋の床に横たわり小さな呻き声をあげているのを家主が見つけたこと。その時、Aの服がびしょ濡れであったこと。近くに火が灯ったままのカンテラが置かれていたこと。などから、夜中に冷たい雨の中、外に出ていたらしいこと。梯子が無造作にベットの端に引っ掛かるような格好で倒れていたこと。そして、木製の丸椅子の上にパレットが置かれていて、その面には緑や黄といった数色の色が並び、それらが混ぜられた幾つもの痕が広がっていたこと、などを話した。
短髪は視線を窓の外に移しながら続けた。
「あの葉、おかしいと思わない? 風が吹いても揺れないし、影の位置も濃さも変わらない。あの葉っぱね…、もう分かるでしょ。」
髪長の目に、みるみるうち涙が溜まってきたかと思うと、あっという間に溢れ出した。その泣き方と長さは、髪長の体液の全てが目から出尽くしてしまうのではないか、と心配するほどであった。
髪長は上目遣いに窓の外を見た。しばしの静寂のあと、短髪は小さな低い声を感じた。
「えっ? なんて言ったの。」
短髪は振り向いて髪長の顔を見た。髪長はその問い掛けに答えることなく、むしろ唇をつぐんで、ただ窓枠を見つめている。
しかし、心の中では尚もボソボソと呟き続けていた。『私のせいじゃない・・・ 私のせいじゃない・・・ 』

この出来事は瞬くうちに街中に広がった。街角にたむろする画学生たちが、カウンター・バーを溜まり場にしている若い役者たちが、ベーカリーに買い物に来る主婦たちまでもが、この哀しくも感動的な美談に花を咲かせた。
何よりもこの話を面白くさせたのは、Aが日頃から口癖のように言っていた「俺はいつか傑作を描く」というセリフを持ち出して、Aが言ってた傑作とは、壁に描いたあの一枚の葉のことだったのだろう・・・とか、あのオヤジは最後にほんとに傑作を描いたんだ・・・、などという美しいオチが付いていたことに依るものだった。
しかし、Aにすればこれほど心外なことはない。『俺が言ってる傑作とは、長年俺の心の中にある構想の事であって、あんなちっぽけな壁の落書きの葉っぱなんなじゃない。冗談はやめてくれ。』と、さぞかし憤慨しているに違いない。ただし、そんなAは既に墓の中である。もう此の世のことに口は挟めない。
ゴミ処理施設に着いたトラックは、荷台に積まれた廃棄物を次々に降ろしていった。そこは焼却炉に送るまでの集積場である。トラックの運転手らしい男が、荷台がすっかり空〔から〕になっているかを確認するため、ひょいと上がって見渡した。
そこに黒いノートのようなものを見つけた。男は無造作にそれを拾い上げ、もう一度荷台を見渡した。他には何も無いのが分かると、また、ひょいと荷台の端から地面に飛び降りた。
男は、そのa4サイズの古びた黒い表紙のノートをパラパラと眺めて見た。或る面は、開いた両ページ全体を一つの画面として何処かの街の一角を描いた線画。右下に数行の文章がある。
捲ると、紙面の上三分の二ほどに人の横顔のスケッチが幾つも描かれ、下の三分の一には小さな文字で何やら文言がびっしり書かれている。
また、別のページは左の面に幾何学的な模様が描かれ、右のページは一面文章で埋め尽くされている。
紙面の使い方はページによって様々だが、絵が有り文章が加えられているという形はどのページも同じようであった。
これを見る男にとって、それらは彼の感覚のどの琴線も振動させるものでは無かった。男はただ、何が書かれているのか、また何かが挟まってはいないか、という興味だけであり、その興味も消え失せるのに十秒という時間を要しなかった。
ノートを閉じると、それを片手に持ち足速に歩を進め、ソフトボールの投手のようなアンダーハンドスローで軽くスナップを効かせ、集積箱へそれを放り込んだ。その動きのまま踵〔きびす〕を返すと、トラックに向かって真っ直ぐ歩いて行った。
集積場の山は順次焼却炉へと運ばれて行く。恐らく黒いノートもその日のうちに灰になったと思われる。Aのイメージの中に有った傑作がどんなものだったのか、今となっては誰にも分からない。それはAに責任がある。形に成し得なかったAが悪い。模写は得意だが、イメージの具象化に手間取るAの力不足に問題があった。
人類の歴史の中で、何人のAが生まれて死んでいっただろうか。そして、今も世界中に数多〔あまた〕いるであろうAは、その未発表の傑作と共に人知れず消えて行くに違いない。最期の一花さえ、咲かせないままに。 〈了〉